何故か、今後の遺言無効の裁判に関して、やっても無駄だ、という声が多いのが現状です
様々な悲観論が聞こえます。頑張れという言葉はほとんどありません
無駄かもしれない、とは思います
それほど公正証書遺言というのが強力であると言うのは分かっています
しかし、前例のあまりない大きな額の相続になります
私が諦めると言うのは、今後の同様の相続に置いて、あんな大きな相続でも諦める人がいたんだから、私なんか諦めて当然だよ、と、公正証書遺言を提示された側の相続人が常に諦める、という流れも作りかねません
こういう不合理な流れを私は作りたくありません
仮に私が勝訴したとしても、
兄が使い込んだ財産を再建するのは容易ではないでしょう
兄の側にすれば、再建するつもりすらないのではないかと思います
不動産は売却し、預金は使ってしまうでしょう。母の財産を保存するために残りの人生のなかで努力をしようと考えている相続人は私だけなのです
前回の相続後もそうでした
こう言う推移のなかで兄に全権委任するかのごとくの公正証書遺言の登場は極めて不思議です
先日の調停では、中立であるべきが、最初から最後まで、何故か、まるでM信託銀行の代理人のごとくM信託銀行を擁護する弁護士の調停委員は「世のなかの遺言なんて突然出てくるものだ。文句があるんならなんであなたの弁護士を呼んでこないんだ(あなたじゃ役不足だ)」と言っていました(意見を求めてもいないのに)
恐らく、多くの公正証書遺言を突然提示された方が、周囲からそう言われて、調停あたりで諦めただろうと思うのです
心を折る、というのも、主要な相手方の戦術ではあります
勝てそうもない、だから辞めよう、というのはすでに相手方の術中に嵌っています
まずは、おかしい、成立の状況を明らかにしてくれ、と声を上げることではないでしょうか
公正証書遺言に関わらず、世の中の改革というものは常にそのような過程をたどって成し遂げられてきたのです